昭和52年12月10日 月例祭
御本部の報徳祭を頂いて、今日はちょうどお月次祭、もう十分に間に合わせて頂いて、祭員の先生方もおかげを頂いて、当たり前にこうしてお祭りが出来ました。今度の報徳祭を拝ませて貰うてお参りをさせて頂いて、大嬉しいと思うことがございました。と言うのは御本部でのご信心が、合楽の信心を段々手返して見えたのではなかろうか、と思われるほどしに、合楽調になっておられる事でございます。皆さんもお気付きになったかも知れませんが、あのパンフレットが大祭、お祭りたんべんに出ますね。
もうお参りになった方は、お読みになったですか。お読みになった、合楽でお話を頂く通りのことが書いてございましたでしょう。もうこげん嬉しいことはないです。私共が言っておる事が、このようにすんなりと、御本部の方にもまぁそれが合楽の言う事が、あの信心が分って頂いておるというのではなくて、御本部にもそういう生き方が出来ていかれておると言う事を、感じさせて頂くんです。まぁだお読みになっていない、まだ方のために、その事を申し上げますとね。
あとでパンフレットを沢山頂くつもりでおりますから、そん時には皆さんにも読んで頂きますが。ある教会の先生のお話が載っておりました。ご普請が始まったんです。ところがいよいよご普請が、あの始まるという直前に、教会長先生が亡くなられた。ところが総代幹部の方達が、とても親先生がおられんのに、こういう大変な事を思い立ったんでは、自分達ではとても用が務まらないからと言うて、皆が言うなら総辞職をしたんです。時にその奥様である先生がですね。
本当に今までは頼りになると思われるような人が、自分の周囲にあまりにもあったからね。やはり頼りにしてはならんと思うけれども、頼りにしておった。金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃと、教えに頂いて折るのにも関わらず、教会の中でも、あの人は頼りになるという人を、頼っておったのに、その頼りになると思うておる人達がみんながもう、この御用は務まりませんと言うて断ってきた。
時に初めてです、自分が頼りにならない者を、頼りにしておったことを悟らせても貰うて、一心に神様におすがりし抜いてまいりましたら、おかげでご普請も来春には出来る。そして借金もせずに、おかげを頂いたというお話が出ております。皆さんもそうですよ。金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃと言う事を、だから楽じゃと言う事は、私どもが楽ではない不安である心配である。
ならばこれほど神様にすがれば楽じゃと言われておるのに、神様にすがらずまぁだあの人にすがったり、この人に頼んだりまたは金やら、自分の健康だけを頼りにしておると言った様な事では、おかげが受けられないことが分かるわけです。その焦燥がその不安が、心配が神にすがっていない証拠なんです。そのすがっておった頼りになると思うておった人に、頼っておったのが一遍に無くなった。そこで初めて気が付いた。教えには頂いておるけれども。はぁこりゃ頼りにならないものを頼っておった。
神様一心に縋って行こうと決心がついた時に、親先生は亡くなられたけれども、その翌年は立派にご新築が出来られたというお話が出ております。次にはある先生が自分の親先生親、お母様の事を話しておられます。私の方の母はもう一切を有難い有難いで過ごして参りましたと。もう全てどう言う事が起こってきても、それを有難い方へ有難い方へと受けて行った。それがねただの諦めの進めでもなからなければ。もう仕様はなかと人間は、まぁ諦める事が肝心だとと言う様な事ではないというのだ。
諦めの進めでもなからなければ。物事は取りよう思いようだと言うのでもないという。物事はもう思いようですよと。取り方一つですよと言うのではなくて、どういう問題が起こっても、どういう難儀な事になってきてもです。そこから神様の本当の心を分ろうと努めると言う事だと。難儀な問題それを例えばまぁこれも大難を小難と思いますとか。言うなら心と口とは反対の様な事を言うたり、したりしながら言うのではない。
思いようじゃない。その中にある神愛をです、その事を通して分ろうとする精進が、一切を合掌して受けて、有難いと受けていったという、その有難い母の信心をです、語っておられることが、短い文章に書いてございます。二つとも合楽の御理解を頂きよりなさったばいのと思うごたる感じでしょうが、皆さん。そら決してそうではなかろうけれども、御本部でのあられ方と言うものがです。もうこれは金光教の信心の、もう土台になる思い方考え方なんです。
それをおかげにして行く、徳にしていくという生き方を、言うならば合楽では、朝晩説いている訳です。もうこれがこの事がね、一切神愛と受けると言う事。頼りになるものはない、神様だけしか頼りにならない。それにあれをすがりこれに頼っておると言う事ではです。神様の十二分の働きを、現し申し上げることが出来ないと。金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃと言う、徹した頂き方が私共の信心の、信条になってくる時です。
言うならば、神を杖につけば楽じゃと言う、心の状態が、何時でも開けて来る事でございます。今度御本部参拝をさせて頂きまして、奥城で、今後の合楽の信心について、お願いをさせて頂いておりました。今度はもう何と言うても、広々と、奥城の敷地があのように綺麗に出来上がりましたから、あそこに奥城が、それこそ拝める奥城として、拝める庭園として霊園として。本当に拝まずにはおれないような、素晴らしい、霊園が出来なければならない。
それにもう合楽ではそうしなければ出来ないほどしに、切迫しておるのがあの今度の合楽ビルまぁどう言う事の名称になるか分かりませんけれども、その建設のことであり、大坪の家の宅の神様のお家が、今度出来ることになります。もうとても考えてみると考えてみると、もうそれは言うなら恐ろしい様な事。普通で言うなら。金も何も無いのですよ。貯まった金と言うのは無いのですよ。それにこの前三億と言いよったら四億かかるそうです。はぁ口でこそ四億だけれどもね。
ほんならこら私がころっと、死にでもしてご信者さんが、がたっと減りでもしたら、こら本当に借金を残して、いかにゃ成らん様な事になる。例えて言うてね。こら何時の場合でも合楽はそうです。この新館が出来ます時にも、あれは五千万でしたか。もうその時分といろいろの情勢が変わってきて、桁が違ってきた。四億円という。そういう言うならば大事業を合楽で、それももう切羽詰って止むにやまれないところから、そうなさらなければならなくなってきた。
霊園でもこらもうどうでも、そうしなければ出来ないと言う事。修行生の方達がだんだん増えるに従って、もうとにかく今は寝るところがとにかく、重なり合って寝るようにしておるだろうと思うんです。まぁだ二階に上がって見たことないけん分らんばってん。こうまか部屋に四人ずつも、五人ずつも入っとるのですから。まぁだ合楽にはみんな修行に来たい、行きたいという人が沢山ある。それで、そう言う様な設備も、また出来なければなりませんのです。
ですかその事がいわば願いになってくる。そうしたら神様からお知らせに頂きますのが、私はあの競輪と言うものを見たことが無いですけれども、あのテレビなんかで見ますと、競輪選手が競輪専用の車に乗って、何人かの人がこうお尻をあげて、踏んで行きよるところを頂いた。自転車というのは自分で、踏んで回ると言うのですから、歩いて行くよりも良いですけれども。やはり自力をもって踏んで行くのです。あれに発動機が付けば、これはまた別ですけれどもね。
発動機じゃないやっぱ自分で踏んで行かんならん。人力に見切りをつけて神力に縋れ、人力おのずから湧くと。今日までその生き方でやってきた。けれどもそれは例えば五反なら五反、六反なら六反、ここのお屋敷にするならば、六反なら六反という信心。そこで神力おのずから湧くほどしのおかげを頂いて、先ほどからはあの様な盛大な十年の記念祭も仕えさせて頂いた。思いもかけないおかげを次々と頂いておると言う事は、肥えはせいでもひとりでに物が出来る様なおかげを頂いてきたと言う事なんです。
ところがそれは六反の所有であったと言う事。今度六反が一町になる。そんならここの四反の所にです。もうひとりでに出来るほどのおかげを頂くことの為に、人力の限りを尽くさなければならない。そこが十分に人力の限りを尽くして、人力にも見切りをつけれる力を頂いた。その向こうに神力おのずから湧いてくるというおかげが頂けるのです。自転車というのは、いうなら自分の力で踏む。いうならば人間の言うならば、精進努力という事でございましょう。
何故競輪選手のあの姿形かというと。こう尻を上にこう上げとると言う事は、いうならば腰を上げてと言う事だろうと思うのです。これじゃいかんこれじゃいかんと思いながら、なかなか腰が動かん。尻が重過ぎる。そこ、いうなら神様がこうね重い尻を上げよと、腰を上げよと。そしていうならば私共の願いに向って精進せよというお知らせであろうと思いました。それで私はそのほんならこれからの、人間の持ってる真心と力を一生懸命に現すと言う事。
それがいうならば、神ながら主義ではいけないと言う事。その事をまたお願いをさせて頂いとりましたら、草冠に勝つという字を頂いた。勝つ負けるの勝つ。そういう字はありませんよね。けどもまぁ書いてみて下さい。草冠に月を書いてこうね勝つ。けれどもね次には藤という字。安藤さんの藤という字ね。藤山寛美の藤です。草冠に月を書いてこう書いてある。よく勝という字と似てますよね。只今私が頂きましたような字は実際はありません。けれどもこれは御理解だと、私は思いました。
草冠は勿論自然。いうならば自然の対決と言う事においてです。これに勝って行かなければいけないという、人力の限りを尽くせと言う事であると思うのです。今まで一遍参ったとを二遍参る。今までこうしておった信心を倍増していく。それもやはり人力をいよいよ、限りを尽くす事でございましょうけれども、何と言うても日々私共が、様々な問題様々な難儀と対決する時。自然に起きてくる問題と対決する時。これに負けて行ってはならないと言う事だと頂きました。
草冠にいわば勝彦の勝という字。だからその是だけ信心を頂き、是だけ分っておるにも関わらず、いよいよ自然との対決成り行きとの対決の時には、何時も負けてばっかりおる。知っておるけれども負けてばっかりおる。例えばここにお酒の好きな人があるとしましょうか。はぁもうお酒はもう飲んじゃいかん、お酒は俺の命取りだと分ってる。ほんなら日に一合なら一合に決めとる。所がさぁそれがここに沢山出て来るとです、もうそれがね、これは飲んじゃいけない事が分っておるけれども、飲まにゃおられん。
これはもう対決において、負けていっておる姿です。歌の文句にありますよね。惚れすぎりゃ知恵も無くなる思案も立たんと。惚れ過ぎると言う事は、好き過ぎると言う事。例えばお酒ならお酒が好き過ぎる人はです。好き過ぎる人はです。これで自分が命取りになると、例えば思うような改めなければならないものがあるとです。それと対決する時に本気で心行が出来ておらんと、実は後から考えても楽に出来ることだけれども、目の前に好きなものがあると、手がガタガタ震うごつなってくる。
もうこれで止めておこうと思うけれども止めきらん。これが対決に負けていっておると言う事なんです。そこに何時までたっても、人間の言うなら完成を目指していくと言う事にはならない。真の人間を目指すと言う事にはならない。真の人間には、相応しくないものがです。私共の、おかげの受けられない癌であると言う事が分かっておるのですから。それがそれと対決する時。その好き過ぎるものと対決する時、私共はそれに打ち勝っていくと言う様な信心をです。
合楽の方達はこれから、一つ本気でなしていかなければいけない。合楽の方達は何かもうそれこそ、目の前が真っ黒なるといったような、何か大きなことが起こってくる時には、どっこいとたいがい受けておられるようですね。そしてさぁこれを如何に信心で受けていくか。日頃、頂いておる御教えを生かしていくのですけれども、茶飯事のことになると、実にもろい。人力の限りを尽くすと言う事の焦点をです。
神様はそういう風に教えて頂いた。ただこれを自然ただ藤と言う事になると、藤は藤の花、下のほうへしか咲いていかん。同じ藤でも、富士は上のほうへこういくという信心。おかげが下のほうへ下っていくという信心。これは自然との対決に負けていく。自然との対決に勝っていくと言う所に力を受ける。言うならばここはひと辛抱せんならんと言う時にです。その対決して辛抱力に物言わせて、こう勝っていく時に、信心辛抱の徳と言うものが身に付いてきて、あのように難しかったことが。
辛抱をせんで済むほどしに、楽に出来るようになって行くというのが、もうすでに徳なんです。信心辛抱の徳なんです。だからここの対決において、何時も負けていっておればです。力にもなることは無い、おかげは下がっていくと言う事。上のほうをこう同じ見上げられるでもね、富士の山の見上げられるというのでなからなければいけない。高められていく信心でなからなければいけない。それには私共が自然、成り行きを尊ぶとか、成り行きを大事にすると言う事は、そう言う事なんです。
その自然との対決において、ここを有難いと受けていくと言う事なんです。そこには辛抱が要るのです。信心には辛抱が一番大切だと三代金光様が教えておられる。その辛抱をそういう時にもの言わせなきゃいけんのです。ここは辛抱しぬかなきゃならんと、心行と共にそのことに本気で取り組ませて頂くとです。さほど難しいことではないのだけれども、そこで何時も失敗しておる。それから茶飯事に起きてくる様々な小さい問題のときなんかでも、やっぱりそうです。
私も今日は本当に、自分でもびっくりするように失敗した。今お祭りを頂こうと思うて、今日私は本当に嬉しいんです有難いのです。その御本部の今も申します様な事も。合楽の言うておる様な事が、御本部でもそれをいうならば、もう真正面からね。金光様のご信心とは、こうこれなんですよと、二つの例をもって、これが金光様の信心の根本にならなきゃならないもの。だからそれを根本としておられるのは、皆さんの事でもあり、私のことでもある訳ですから。
それをね本当に成就になっていくことのための、言うなら信心が、あらゆる角度から、使われておる合楽理念は、その事がいうなら説いてある訳なんです。私共がここに発足の新たな、大きな願いを教会として立てさせて頂いた。とても合楽では相応しくないほどしの、大きな事業にいわば取り組むことなんだけれども。けれども私が思い立つのじゃない。やはり神様が思い立ってござると言う事になってくるとです。私共を神様が駆使してくださる。使うて下さる事になる。
それで私共がそれに使われたいと言う願いを持たなければならないと言う事なんです。それには神様が使うて下さったら使われるというのじゃなくて、積極的に使われる。それを今日は人力の限りを尽くすという風に言っております。その人力の限りを尽くさせて頂いて、言うなら辛抱の出来んところを、辛抱しぬかせて頂くことによって、信心辛抱の力が頂かれる。信心辛抱の徳が受けられる。あんなにも私には難しかったことが、もう難しくない平気でそれを有難く受けていけれるという様にです。
信心が上のほうへ向って進んでいかなければならない。もうここお祭りに出ろうとしておる時に楽員の中村さんが、あの報徳祭のご案内を受けました。ところがそれにはあの十月十六日でならなきゃならんのに、十月六日と書いてある。もうすでに日は過ぎておる。あらそらもうあんたげんとだけでなかたい。みんなにほんなら五百枚も出しとるげなけん、みんなそのそれを見もせじゃったじゃろうか。
私が何時もここさん持ってきなさい。本当言うたらあれを全部持ってきて、神様に御祈念でもして頂いて出さなきゃいけんのだけれども。私がとこへ持っても来んでどうしたこと、誰がそんなことしたか。いや僕がこうしてもう、昨日か一昨日か出した。それでもう皆さんの手元に行っておる。それには十月六日が報徳祭と書いてある。どうするかそげなことでと、まぁ言う訳なんです。そしてもうちょっと目を、例えば瞑らんでも実を言うたら、すぐ分からんならんとですよ。
ここでそういう大失敗をしておるという事は、結局私が欠けておったんだと。気付かなかったのじゃない。気付かせきらなかったんだと、私が分かる時に、問題はないわけなんです。そしてそれはそれなりにおかげになるです。そういう頂き方が出来たら。それも十分知ってるんです私は。けれどもあまりにも小さいことですから、つい言うならばもう私はもう、本当に人を責めるという様な事は絶対しません。した事がないと言いながら、実はこうして責めておるわけです。
ちょうど梶原君がそれを出し行っとる。梶原君が一人で悪くしたごと怒られとる。気の毒なことじゃある。私の信心が行き届かなかった。私が間違うておっても、気付かせきるだけの力を持っていなかった事を、お詫びする以外にはない。実はそんなわけですから、皆さんの手元に行っとるのは、皆さん、あれは十六日と訂正して、そして隣近所に分らない方があるならば、あれは十六日の間違いと言う事を、皆さんからもまぁお伝え頂きたいと思います。そういう時にです。
もうちょっとこう思えば、すぐ分かることを失敗する。これもやっぱ自然とのもう軽う、そんくらいのことは、もう一遍に力で言うなら、投げ飛ばせられる自信を持っておりながら油断をしておるから、その些細な事に投げ飛ばされとるという感じがしましょうが。本当にあの目の詰まった信心。為に一つ心行を言うならば、私共が怠ることのない信心をさせてもらわなければ、いつでも心の中に有難い。いつも心の中に神様を頂いておらなければ。あらそげなこつじゃったのと。
そらほんなら神様にあらためて、お願いしとかにゃのと。この次からは。一遍御結界を通さなきゃいけないよと、おだやかにいやそれで良かつだけれども、誰が書いたか、誰が出したかと。そしてもう印刷屋が、まるで間違うておるように言うたり、思うたりしておる。そら、ひょっとすると、印刷屋の間違いかも知れません。こちらから原稿をやっておる、印刷屋が間違うておるのかも分りませんけれども。信心というのはあれが悪い、これが悪いじゃない。
自分自身の所へ持って、それを頂かなければ、考えなければならないと言う事。私は今日帰らせて頂いてから、思わせて頂いたことでしたけれども。疲れた心にはおかげはないと、昔から頂いております。疲れた心にはおかげはない。だからもう這いも立ちも切らんごと、例えばなっておる時。それでもねそら肉体は疲れておりますけれども、心は生き生きとして有難いという時。
今日はあそこへ、千代田さんがお参りになっておられますが。私が引き揚げて帰った来た時分に、ちょうど千代田さんところが、やっぱこの辺だったと思う。千代田さんところの田んぼがあります。もう本当に自分の身体を何か御用に立ちたい、お役に立ちたいという一心に燃えておる時です。さぁ取り上げの始まったけん、どこでん手伝いに行くわけにはいかん。そこで千代田さんところへまぁ取り上げの手伝いに行った。ちょうどこの辺の田んぼをする時でした。
その日は大変遅くなってもう最後に、この藁こずみだけはしとかにゃという時でした。だからその慣れない手つきで、まぁその藁をこう束ねるわけですね。むすでと言うのがありますね。そのむすででこうやって、括っていかにゃいかん。それがもう身体はもう慣れ無い仕事の時は、もうへとへとになるです。けれどもねそれをそのこう結んだ調子にですね。力が余ってからむすでが切れたんです。
そしたらどうした弾みだったか、私の身体が、その藁の向こうのほうへこう結んだいき、こんな風にしてやっぱしとったんでしょうね。それこそ尻を上げてからこうやって結んどる調子に、切れたもんだから向こうのほうへ、私の身体が行った。向こうに返ってもうおよたえ回って、もう起きろごとないごと、きつかったんです。けれどもねそのこう仰なかせになりながら、有り難うございます。
もう今日はもう本当に神様、私の力の限りお使い回し頂いて、有り難うございますと言うて、あの、御礼を申し上げよったら、涙がこぼれて仕様がなかった。だからどんなに疲れても疲れても、なるほど御本部参拝ですから疲れてもおろうけれども。今日私は人力の言うなら、限りを尽くさんならんと言われるので、その事を頂いて此の方、ずっと何時間考え続けてきた。例えばほんなら福岡から、ここまで送ってもらう中にも、何時も私はここまで寝てきた。
けれども寝ると身体が疲れる。そしてお祭りが本当に出来ん。そこで今日は帰ったらすぐお風呂へ入って、お祭りを仕えんならんから、もう若先生が乗っておりますから、ずうっともう福岡からここまで信心話をしてきた。御本部で頂いた事御本部で感じた事。あんたここんとこはどう思うかと。親子でもう信心の共励を、一生懸命させて頂いた。不思議ですね皆さん。汽車の中ででも信心話を一生懸命、して来なさった方ならば、絶対疲れとらんです。有難いものが湧いておるです。
それがまぁ人の噂どんして来た人なら、もう必ずきつうなっとるけんで、もうご無礼してから帰ろう。恐らく帰っとる。あっはははもう信心話もそげんあるです。だからそん為には、ほんなら寝たほうがそん時、楽なけれども寝らずに一生懸命信心話を私が、若先生と二人でしてきた。私はあの人力の限りを尽くすと言う事は、そう言う事でもあると思うのです。だからもうきつかから眠る。眠たいからご無礼する。そういうところをです、私は人力の限りを尽くすと言う事は、いわば性根を入れ替えてです。
そういうところをしゃんとして行く事が、人力の限りを尽くしていく。辛抱の出来ないところを、辛抱し抜かせて頂く所にです。それが、分の身に付いてくる、自分のものになる。それが血に肉になって、信心辛抱の徳と言う事になるのじゃないでしょうか。そこからです人力に見切りをつけて、そこからおのずから神力に縋っていく。人力はもうおのずから湧いてくるようなおかげを頂くのです。言うならばしっかり、そういう信心辛抱の肥やしをしておくのですから。
ひとりでに物が出来るような、おかげと言う事にもなってくる。現在の合楽の信心が、六反で良かならばです。これだけで良かならばですもう。ひとりでに物が出来るようなおかげが、今頂けておるところなんです。けれどもやはりこれが。言うなら、輪に輪を描くように、だんだん大きくなって、行かなきゃならんのです。だから大きくなったたんべんに、私共の心の中にうつろなものがある。それではいよいよ、おかげになりませんから、ここでいよいよ。
今日私が聞いて頂きましたような内容を内容としての人力です。の限りを尽くさせて頂いて、無限の神力にいよいよ、合わなければなりません。一回り大きくなった神力におすがりし、それを、頂いていく信心になっていかなきゃならんと思うです。それはどうぞこの、草冠の下に、勝と言う字を書いた。こんな字は無いけれども、これは御理解と思うて頂いてください。
自然の働きとの対決において、成り行きを尊ぶ大事にすると言う事は、この自然の成り行き、ここは辛抱が出来んと言った様な所を、辛抱しぬかせて頂くという事が、有難く頂くと言う事なんです。だからここの対決で、一つ私共が勝っていく信心をさせて頂いて、上に出るところの富士のおかげを頂く。本当はこの藤という字。負けていったんでは言うなら、藤の花の下に下っていく様な事になってくる。
これに勝っていくことが、上に出て行くおかげになってくる。私は今度の御本部参拝で、合楽の信心が世に問われようとしておる、今大事な時期でもあります。そういう時にほんなら先駆けてです。御本部のほうで私が言っておる事を、そのまま書き写されたじゃなかろうかと思う様な、言うならばパンフレットに二つの例を書いておられるのが、これが金光様のご信心ですよと言っておられることが。
合楽で皆さんが常日頃頂いておられること。それが皆さんのものになっておる、いないと言う事はまだ分らん。それがあの二つの問題ですね。人には頼らん。もう本当にもう本当に例えばそういう時に、もういよいよ神様にすがらせて頂けれる時が来たと思うて、勇んでそれを受けていくと言う生き方。なんでんかんでん有難い有難いで受けて行きゃ良かけんでと言うて、諦めであったり。
ほんなら物事はただ考えよう、思い様と言った様な、消極的なものではなくて、そこにある神愛を、いよいよ悟らせて貰い分らせてもらおうと言う内容という、そういう姿勢があっての、一切がおかげと言う事になってくる。そして体験としてなるほど、神様のあれがお計らいであったと、分ってくる時にです。神を杖に付けば楽じゃと言われる、いわば楽な安心な心の状態が開けてくると言う事になるのです。
どうぞ。